「死」は避けられない
前回記事の補足。
死って、特別な事じゃないんですよね。これは、若いうちは知らなくて当然です。大多数の人がご両親はご健在でしょうからね。でも長く生きるにつれて、徐々に死が身近なものになります。災害や事件に巻き込まれなくても、死は突然に襲ってきます。ニュースになるような特別な事ではなく、ごく普通に死というものを突き付けられます。じゃあ、ニュースになるような死とそうでない普通の死が違うのかと言ったらそうではありません。
どんな死も、辛く悲しいものです。
たとえ大往生だったとしても、残された遺族にとっては悲しいものです。だから軽々しく「でも大往生なさったから…」って遺族に言うのは絶対にやめて下さい。慰めのつもりだろうが、そんな言葉を聞かされた遺族は「大往生だから納得しろと言うのか!」と激高します。もちろん面と向かっては言えません。心の中でです。
死は、悲しいものなのです。
もちろん、互いの関係性によって悲嘆の度合いは様々です。私の場合は、妻の死はこの先一生乗り越えられません。辛さを増しながら、それでも生きていくしかありません。
が、たかが配偶者じゃない、赤の他人が死んで何が悲しいの?死んでくれて清々したわ。と、思う人もいるでしょうね。死の悲しみは、本人にしか分かりません。ペットを亡くされて立ち直れない人もおります。それをたかがペットじゃんなんて軽々しく言えません。ご本人にしか分からない辛さって、あるんです。
みんな、平気そうな顔して生きていますが、その腹の中の苦しみは、外からは分かりません。それなのに、さあ笑って!元気出しましょう!ポジティブシンキング!とか言われても、むり。
でもねえ、じゃあ心配してくれている人を拒絶して自分独りで生きていけるかといったら、それもむりなんだよね。お節介されるのは嫌だけど、でも助けて欲しい。ったく矛盾すぎる。
あーあ、苦しい。だれかたすけろ。
とりあえず、ユーミンでも聴いて泣くかな。