裏八祐ブログ

閲覧注意。ブラックです。

誰でもいつかは「気の持ちよう」ではどうにもならない苦しみを味わわされる

もちろん、災害や事件などに巻き込まれた場合などは例外で、、楽しかった日常がどうしようもなく崩壊してしまうことはあると思います。でも、普通の個人に降り掛かる不運程度なら、「気の持ちよう」でどうにでもなるんじゃないか、と私は考えているわけです。「どん底」なのも「毎日バラ色」なのも、外面的な要素によるものではなくて、その人の「気分」の問題だと。

上記は、いつも拝見しているブログさんからの引用です。それを表ブログでなく裏ブログにて引用するということは、ご本人には見られたくない(見ないでほしい)と願うからでございまして、なのでこちらにてこっそり私の考えを述べたいと思います。

どうして表だって反論しないのかというと、それは上記のような考えで一生を終えられる方が望ましいと思うからです。つまり、「気の持ちよう」なんかではどうにもできない不幸なんて知らない方がいいにきまってます。それならば、なぜわざわざ反論するかというと、それは決して「普通」ではないからです。気分の問題で済む程度の不幸だけで一生を終えるだなんてことはめちゃくちゃラッキーなことだということを、声を大にして言いたいからです。これは、そうですね、60代以上の方なら私の意見に納得してくれる方も多いと思いますが、20代の方なら上記引用の考えで全く問題ありません。若くしてそんな不幸を知る必要なんてないです。私も知りたくなかったです。

 

先日、ある芸人さんが亡くなりました。まだ30代の若さです。その訃報を知る1週間ほど前に、私は偶然にもその方の名前を耳にしました。妻のお墓参りに行ったらお寺の境内でイベントを催していて、そこに出演されてました。無名の方ばかりの中で唯一のメジャータレントでした。きっと再起をかけてがんばってらしたんでしょう。そんな様子を近々ブログに書こうかなと思ってた矢先に、訃報を知りました。

 

人って、必ず死ぬんですよね。

若くして亡くなることも珍しくありません。

そして、残された人の日常は、一変します。

死って、ものすごく日常的な出来事なんですよ。極々普通の出来事なんです。

そして死別の悲しみは、極々普通の家庭にこそ現れるんです。

ある時突然に、死が、バーチャルなものからリアルなものに変わるんです。

 

「愛」を知らなければ別れの悲しみを知らずに済むでしょう。

が、愛すること、愛されることを知らずに生涯を終えるのって、かなりつらいことだと思います。いわゆる孤独の苦しみってやつです。

最愛の人を亡くす(もしくは残して旅立つ)悲しみか、それとも孤独に苛まれて死んでいく悲しみか、大多数の人がそのどちらかを経験させられるでしょう。それを「気の持ちよう」だけで乗り越えられるとは、私にはとても思えません。

乗り越えられないまま死んでいく、それが普通だと思います。

 

 

で、結局、私はこのエントリーで何を訴えたいんだ?

メメント・モリ的なことを訴えたかったのかな?

「死」ってやつは予想以上に破壊力あるぜって不幸自慢したかったのか?

 

そう、「死」って急に、ある日突然に来るんですよ。

今日はそれを1番言いたかったのかな。

どんなに元気していても、急に死んじゃうことってあるんだよね。それって特別なことでも何でもなくて、誰にでも起こりうる極々普通のことなんだよね。

先の芸人さんの死は、そのことをあらためて実感しました。

 

それともう1つ言いたかったことは、

不幸が訪れた時、大抵の人は「立ち直る」「乗り越える」ことを普通と思っているが、それってさ、高校球児が甲子園に出場するくらいに並大抵のことではないんだよね(しかしオリンピック出場ほど困難ではない)。

神さまは乗り越えられない試練は与えないとかなんとか、そんなの都市伝説ですから。真にうけちゃダメですよ。と、そう思った方が楽です。生きやすいです。

 

気の持ちようでは乗り越えられない不幸の1つや2つ、抱えながら死んでくのが普通だと私は思うよ。ま、気学を実践すれば、その「気の持ちよう」を具現化することが可能だけどもね。というわけで宣伝乙で〆ます。