裏八祐ブログ

閲覧注意。ブラックです。

インド人が苦手

どうもインド人とは相性が悪い。
人種差別的なことは言いたくないが、でも実際にそうである。
いや、彼らがインド人かどうか正確には分からない。なのでインド人が苦手というのは不適切か。
インド人のような顔をした傍若無人な奴らがムカつく。が正しい。

昨日のローマにて、また奴らにムカついた。
コロッセオの手前、赤信号で止まっていた時のこと。これまで散々に歩き過ぎていて、ちょっとでも座りたかった。そこにインド人顔の物売りが近づいてきた。
いまローマは連日快晴で、気温もハワイより高い。なので物売りの主流は、帽子や日傘である。どの物売りもまったく同じ種類の物を売っていて、その組織化された仕組みには興味があるが、品物そのものには全く興味がないので「ノー」と断る。普通はそこですぐにいなくなるが、そのインド人顔の奴は更にしつこくすすめてきて、こともあろうか私の頭に勝手に帽子を被せようとしてきた。なので、被されないように避けながら強く拒否をした。そしたら「アーユーフロム?」 だって。教えるかよ。
無視してたら、またなんか言ってきた。聞き取れなかったが、いい加減うざくて仕方なかったので、あっちに行けという仕草でシッシと手で追い払った。そしたら仲間内に差別的な物言いをして嘲笑した。言葉が分からなくても悪口は分かるもんだ。チナがどうたらこうたら、と。チナ?もしかして中国人と間違えられた?それは中国の人には大変申し訳ないことをした。

昔から捨て台詞を吐くのが得意でなく、また好戦的な部分を持ち合わせているのに突発的なケンカは苦手で、ついその場では「逃げるが勝ち」の戦法をとってしまう。決して平和主義者ではないから、だからあとになってじわじわと怒りがこみ上げてきてしまう。
ああ、ファッキューと中指を立ててやればよかったのか、それともどこから来た?と訊かれてインドと答えてやればよかったか。ああ、あとになれば色々と方法が思い浮かぶのに。
先日に遺跡を歩いている時に、ギャーギャー喚きながら歩く初老の白人女性がいた。英語なのかフランス語なのかイタリア語なのかよく分からないが「こっくろーち」とやたら連発していた。え?私は奴がこの世で一番苦手なので警戒したが、でもそれにしても尋常でない様子でとてもご立腹だった。彼女が来た道を振り返ると、そこにインド人顔の物売りがいた。

もしかして、彼らのことを「こっくろーち」呼ばわりした?
その時は半信半疑だったが、今ならその気持ちはよく分かる。
もしその初老の白人女性が私のようにこれまで散々彼らに嫌な思いをさせられたとしたら、それは果たして人種差別なのだろうか?

クアラルンプールでスリの集団に遭った時も、そいつらはインド人顔だった。世界中どこに行っても中国人とインド人はいる。中国の人は向こうから直接になにかを仕掛けてくることはないので、こちらがツーリストとして接する分には何も問題なく、それどころかとても友好的である。韓国の人もそう。でもインド人は、あ、じゃなくて「インド人顔の奴ら」はそうではない。聞いたところによるとインドでは金持ちからはいくら騙してもよくて、むしろそれを富の再分配として良しとしてるとか。こちとら全然金持ちじゃねえが、こうして海外旅行ができる時点で金持ちなんだとか。
そんなメンタリティーの奴らはインドに閉じ込めておけよ!インドなんか絶対に行かないから。

それもこれもみんな貧乏がいけないんだ。彼らも裕福ならまた違うのだろう。あ、でもわがままで下品な金持ちは日本人でもたくさんいるので、貧乏から脱するだけではまだ足りないか。
違う。俺が金持ちになればいいのか。そしたら自ら手を汚さずとも付き人が裏でボコボコに…なんてね。

日本も本格的に移民を受け入れるそうだが、日本の名所旧跡の前で同じ光景は見たくない。

コンピューターと会話する

沈黙のまま暮らす 65歳以上男性の6人に1人 - 太陽のまちから - 朝日新聞デジタル&w

週刊モーニングに連載の「OL進化論」で、週末の丸2日間「声」を出してないから一人カラオケに行くという話に共感した。

以前にも書いたが、会話をするという以前に「声」を出さないことでの身体的ストレスがとても危険で、先ずはそこの対処法を身につける必要がある。だから、ペットやフィギアやテレビ等にぶつぶつと話しかけることは、一般的にはキモイと思われるが、孤独者、特に男性の孤独者にとってはとても有効な対処法であろう。

更には「大きな声を出す」ことでストレス発散や声帯を鍛える効果が期待できるので、冒頭に述べた「一人カラオケ」はとても素晴らしい方法に思う。車の中でお気に入りの音楽と一緒に歌うのも良い。

それをして、はじめて「SNS」での繋がりが有効になる。

ツイッターやラインで十分という人は、「声を出さない」ことでの身体的ストレスを甘くみている。「声を出す」というプリミティブな身体感覚を軽視してはいけない。

 

最近スマホデビューをしたが、そこでの「音声検索」にはまってる。文字を打ち込むよりも圧倒的に楽なので大活躍中だが、そうか、コンピューターと会話するという別の可能性もこの機能には含まれているのか。アップルのSiriだっけ?あれはまさにそれができるんでしょ?今の機能でも十分そうだが、将来はAIが充実して人間との会話と遜色なくなるかもね。そしたら上記リンクの記事のような悲劇はなくなるね。コミュ障でも無問題。

 

「仕事」「名刺」という建前(武器)があれば会話できるという男性は多い。私も同じ。だから1番の対処法は「仕事をやめない」こと。ずーっと働き続ける。それができる人がマッチョ。

傍観

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かつては、波に乗る側だった。人生という波に乗っていた。

今は、ただ見てるだけ。

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ふたたび自分の足で立って波に乗る日は来るのだろうか。

荒波を楽しめるのだろうか。

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海は目の前にあるのに、その入り口が見つからない。

新しいボードがどこに売ってるかも分からない。

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今日も見てるだけだった。また明日に先送り。

結婚記念日(15回目)

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こちらは1月20日の午前9時。この記事を書くのは今日1日を過ごしてからにしたかったが、日本の日付がもうすぐ21日となってしまうので、その前にエントリーをあげる。

 

祝う相手のいない結婚記念日。

誕生日なども含めて、なかなかに辛い日となるのがこうしたハレの日で、淋しさと悲しさと虚しさがどどっと去来する。

対処法として「祝わない」という方法もある。ハレの日っぽいことをせずに、ただ365日のうちの1日に過ぎないのだと自分を偽る。しかし、そう思い込もうとすればするほどハレを意識してしまう。

また、本当に忘れてしまうのも、それはそれでものすごく悲しい。

 

「見えないだけで、ちゃんとそばに居ますよ」という正論も、霊感ゼロの赤の他人になんか絶対に言われたくない。そばに居ることなんて、そんなの十分わかってますって。わかっていながら、見えない、会話できない、触れない、気配すら感じない鈍感な自分にムカついてムカついて仕方がない。だから「そばに居ますよ」なんてドヤ顔で言われたら、八つ当たりしてぶん殴りたくなる。

そういうことを言わせないために、コメント欄のない裏ブログに書く。

 

1月は妻の誕生日もあってか、ディズニーランド(ディズニーシー)に行く機会が多い月だった。今回の旅をオーランドに決めたのもその影響によるもので、1月8日か20日のどちらかを組み入れて来たかった。そして今日、その望みが叶うわけだが、計画段階ではわくわくでも、こうしていざ実際に来てみると、楽しさよりも悲しさの方がまだまだ勝ってしまうみたい。小さい子がけなげにミッキーさんに手を振ってる姿とか、胸が締め付けられて仕方ない。特に女の子。子を持てたら彼女に似た女の子が欲しかったから(俺似の場合は微妙)。

 

今回のミッキーさんのショーは「ドリームカムトゥルー」がテーマ。

こちらの人はノリが良くて、ミッキーさんらと一緒に大声で「ドリームカムトゥルー」の大合唱。私は、声を出せない。「夢やぶれて」なので。

 

そう、1年前はレミゼだったっけ。アンハサさんの夢やぶれてにどハマりした。けど今年は、その歌を聴きたいかんじではないな。昨年よりは少し気分が上向いてきたのかも。新たなドリームをカムくらいには回復している気がする。

 

私の新たなドリーム?そんなん決まってますがな。ゼニや、ゼニ!!

ゼニをたくさん使って贅沢三昧するのがドリームや!ゼニっこカムカムトゥルーや!!!

 

 

なんだかとっても下品なオチとなってしまったが、来年の今頃にはその夢の光明くらいは見ていたいな。ミッキーさんにお願いしとこ。

51歳(仮) の誕生日

主のいない誕生日。

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主のいない誕生日は、これで3回目。一昨年に初めて催して、まあそれはそれは辛かった。そのせいか昨年はケーキすら買いに行けずに引き籠っていた。今年は、けっこう大丈夫なかんじ。ケーキも買いに行けた。今のところ悲しみが噴き出すこともなく、平常心でいられている。

 

51歳という、中途半端な誕生日のせいかもしれない。きっと、還暦になったら最大級に悲しみが噴出するんだろうが、当分は大丈夫そうだ。

てか、ピンとこない。彼女が51歳になったという気が全くしない。だから悲しくないのかも。このままきっと59歳までピンとこないまんまだろう。そして60歳の時に突然、悲しみが津波のごとくに押し寄せる。それは、母や祖母の還暦のお祝いを経験しているから。だから「何で彼女は還暦を祝えなかったの?」という疑問と怒りと悲しみが噴火する。そうならぬよう、なにか対策を練らねば。

 

2023年1月8日。彼女の知己とともに還暦パーティをするのか、それとも私ひとりどこか海外でその日を迎えるのか。いずれも貧乏な状況だとできないわけで、その頃にはネオヒルズ族をしのぐ豪遊っぷりで調子こいていたいな。

けっきょく、悲しみを癒せるのはおカネだけ、か。

「親子の自立」ってそんなに必要かね?

親と子、それぞれの自立 - Chikirinの日記 

「還暦に赤いちゃんちゃんこ」は誰もが知ってる常識だと思ってましたが、最近はそうでもないんですかね。自分自身を思い返してみますと、祖母の還暦祝いを私ら孫を交えて催したから「還暦祝い」「赤いちゃんちゃんこ」というものを学習できたんだなと、あらためて思いました。「祝いごと」をちゃんと執り行うってとても大事なことなんですね。

私の母も、もう何年も前に還暦を迎えました。私は孝行息子(?)だから、母から催促されずともちゃんと還暦祝いをしましたよ。赤いちゃんちゃんこの代わりにラッフルズホテルにあるタイシルクのお店の「赤いブラウス」をプレゼントしました。車ほど高くはありませんが普通のブラウスの10倍以上は値が張るもので、この先20年、30年経っても褪せずに着られます。つまりは生涯「これは息子が還暦祝いにくれたものなの」と自慢できるものです。一生着れる「赤いちゃんちゃんこ」としてプレゼントしましたので、おれってやっぱ孝行息子じゃんって思います。ふふふ。

 

と、自慢話をしたいんじゃなくて、今日は「親子の自立」について、上記リンク先とはちょっと違う意見をもっているので、それを書き記したくなりました。というのも最近、「互いに自立しない(できない)親子」を肯定してもいいんじゃね?って思うようになったからです。

親離れ・子離れができることが望ましいと昔は当然のように思ってました。がしかし、村社会の歴史が長いこの日本では、親子は自立よりも、うまく相互依存しながら生きてきたのではないでしょうか。今でも「親を介護して看取る」ことが当然とされてますよね? これって当たり前のことのように思われますが、たぶんグローバルスタンダードではないですよ。たぶん。

 

私ら団塊ジュニア世代が老人となる何十年後かの未来ならば、子や孫に依存せずに「フロー型」の人生を生きるべきというは分かります。少子高齢化が進みますのでいやでもそうせざるを得ないでしょう。がしかし、今それを団塊以上の方に望むのは、どうなんでしょうねえ。また反対に、自分らよりも親の方がカネをもってる家もあるでしょう。そんな場合は、遠慮なくスネをかじればいいと私は思いますよ。お互いに依存しあってなにがいけないのでしょう? *1

そう考えるようになったのはやはり、妻を亡くして「なにもかも失ってしまった」からでしょうね。私は、妻さえいれば、あとは何にもいりません。そう想い合って生きてきました。そしてその妻を失い、私はからっぽとなった。このまま世捨て人になろうかと思いましたが、妻がそうはさせませんでした。

 

堀江さんの著書は読んでいませんが、逮捕され、刑務所に入り、人生観を大きく変えられたから、自分の親のエピソードを書こうと思ったんでしょう。これを別角度からみたら、親のことをネタにして本を売り込んでいるわけで、あるいみ依存ですよね。

そもそも、親子の自立って、その線引きはどこなんでしょう?

たとえば、適齢期を過ぎても結婚せずに親と同居している方ってけっこういらっしゃると思いますが、それっていけないことですかね? お正月に帰省したとき、「会話のある暮らし」というものの安穏をまざまざと思い知らされました。

「自立」というご立派な命題を掲げて年老いた親と中年の子供がお互い別々に独り暮らしをして、いったいなんの意味があるのでしょう。うちの場合は母は息子(私の弟)と暮らしているので「独り身」の辛さは味わっていませんが、私はそれで良かったと思います。弟に感謝です。

 

経済的にお互いが自立を促すのは、裏を返せば「もうこれ以上は養えない」ということの表れでしょう。堀江さんが親にフロー型の人生をすすめるのも、この先にまた逮捕とかされちゃった時のリスクヘッジに思います。

つまりは誰もが「仕方なく」自立させられるんです。自立せざるを得ない実情があるから、仕方なく自立の道を選ぶんです。選ばざるを得ないんです。

だから私は、自立しなくてもいい立場ならば、世間の風潮に流されずに依存し合えばいいと思います。そして依存の関係が崩れて自立せざるを得なくなった時に、自立すればいいと思います。事前に予行演習せずとも、その時が来たら誰もが自立しますって。もしできなかったら?その時は死ぬだけです。人間誰もがいつかは死にますから。そんなこと杞憂せずに、今を楽に生きましょうよ。これからの時代は「キリギリス型」の人生の方が勝ち組と呼ばれるような気がします。

 

〈追記〉

記事を書いた後にちきりんさんと堀江さんの対談を読んで、

堀江 でもべつに僕は、「人に頼るな!」と言ってるわけじゃないんですよ。むしろ積極的に頼りなさい、と昔から言っています。

ちきりん それと、個人として自立する話は違うってことですね。 

堀江 ひとりで抱え込まないで、頼るときは頼る。でも、責任は自分がしっかり取る。自立できていない人は、頼りっぱなしで、何かあったときの責任まで、他人に押しつけようとしますから。

ちきりん たしかに。

これには同意です。

ですが、他人に責任を押し付ける系の人って、自立うんぬん関係なく元々そういう腐った輩に思います。なのでこれは、今回の私の主張と混同せず別のものと思ってください。

*1:フロー型の人生を推奨するのは私も同じです。がしかし、だからこそ弱者同士が相互依存しつつ広義でのフロー型というのも必要になってくると思います。そしてそれは、一見すると「自立していないかたち」に思われるでしょう。