裏八祐ブログ

閲覧注意。ブラックです。

おしゃべりは、たのしい。

孤独者にとって日曜日って憂鬱になる可能性が非常に高い(って私が勝手にそう感じているだけですが)。

今日(20日)は来客(仕事)があったので、憂鬱な気分には一切ならずに今こうしてブログを綴っている。そして、あらためて「おしゃべり」することの効果を実感している。

私の普段は、来客がないかぎりは一切の発声をしない*1。ゆえに、来客の仕事が入ると楽しみで仕方ない。そして、はりきりすぎてか、あるいは声帯が弱体化しているせいなのか、のどを痛めるまでおしゃべりしてしまう。ああ、よっぽど「しゃべる」ことに飢えているんだな。

 

いくらメールのやりとりをしていても、ブログやSNSで活発に交流をしていても、日常生活で「声」を出さないでいたら誰でも気が狂いそうになるよ。だって、携帯やネット内での会話とリアルな「おしゃべり」って、全くの別物だもん。

大多数の人は、そこまで「声」を出さないなんてことはないだろう。仕事をしていれば、いくらネットが発達した現代でも多少なりの会話は毎日している。なのでこの「しゃべらない」ことでの孤独感は理解できまい。ゆえに「ネットがあれば孤独にならない」という言説がまかりとおる。ニートも「ゆうちゃんごはんよ」「うるせえくそばばあ!」というステキな会話をしているので理解できまい。だいたい家の中に他人の「ぬくもり」があるではないか。「音」と「体温」のない孤独の苦しさを理解できるものは少ないだろう。

 

こういった経験を早くからできることは、ある意味「ラッキー」なことだと思う。これからはじまる超高齢化社会を見据える上でもラッキーなことだと思う。

痛みや苦しみって、当事者以外には絶対に理解できないものだからね。

誰しもが避けたいことをこうして経験できているって、しかも「若さ」「体力」があるうちに経験できるって、俺ってなんてラッキーなんだろう。

やっぱ気学って素晴らしい。気学サイコー!!!

……キチガイやヤケクソではありませんよ。

 

今日も話したんですが、上っ面の「シアワセ」を超越してこそ、真の幸福に出逢えるんだと思います。いまのこの私の状況(配偶者と死別して孤独)というのは、世間一般からしたらとてつもなく不幸なんだと思います。そのことは冷静かつ客観的な目で理解しています。けれども、私はあえて、今でも「幸せ者」であると断言します。

表のブログにも書きましたが、先日、妻と会いました。別々の世界へ単身赴任してから初めてのことです。ああ、死別してもなおこうして固い絆で結ばれているって、俺ってなんて幸せ者なんだろう。これで少し、生きることが楽になったわ。

…ってことを言うとだ、きっと頭の固い科学バカは私をキチガイ認定するんだろうな。そう思うなら勝手にしろ。どちらが正しいかは死んだらいやでも分かるから。

 

こういう話をキチガイや洗脳のたぐいと混同せずに哲学として理解できる人と語り尽くせたら超おもしろいんだろうな。もしくは、あの世の彼女と話ができたらとてつもなく楽しいだろう。どっちもなかなかハードルが高い。

こんな高いハードルじゃなくてもいいから、もうちょっと日常生活に会話が欲しいかな。でも仕方ない。天才の孤独は凡人には理解できないからね。(震え声&涙目)

*1:厳密にいえばコンビニやスーパーで「はい」「いいえ」くらいは言う。