裏八祐ブログ

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祈りの幕が下りる時

「祈りの幕が下りる時 東野圭吾」読了。

とてもおもしろかった。そして、いろいろ書きたくなった。できれば反応がみえる表ブログに書きたかったけど、ネタバレなしで書ける気がしないし、他の作品のことにも触れてしまいそうだから、だったら読者がいないここで書いた方がいいかなって。ここならば、たぶんこの作品を読み終わった人しか訪れないだろうから。それに、この作品を読む人は絶対にこれまでの東野圭吾作品も読んでいるだろうからね。

 

私は、東野圭吾さんの著書を読むのはこれが初めてでした。でも、ドラマや映画になった作品はいくつも観ています。なので、この作品の下地になってる背景にも違和感なく楽しめました。もし東野作品(特に加賀恭一郎作品)が初めての方は、アマゾンレビューにもあるように「赤い指」だけでも先に観ておくことをおすすめします。個人的にはドラマ(&映画)「新参者」シリーズから観た方がより描写がリアルに感じるのではと思います。阿部寛さんが演じる加賀恭一郎、私は好きです。

 

えーっと、では、おもいっきりネタバレします。

最初の被害者である押谷道子ですが、彼女の死を一般読者はどう感じるのだろうかというのが先ず気になりました。物語の最初は、殺される動機がさっぱり見えません。職場の同僚をはじめ彼女に関わっていた誰もが憤りと怒りを覚えるのも納得です。ですが、物語が核心に触れるにつれて私は、こりゃあ殺されても仕方ないなという思いに変わりました。私のように彼女が殺されたのは自業自得だったと思う人というのは、少なからず苦労や闇を抱えて生きてらっしゃるのでしょうね。

「善意の押し売り」「過ぎたお節介」

これが彼女が殺された原因です。この手の人は物事を一面でしか捉えられず、しかもすべて表面上にあるものだけしか見えない。「元気」「一生懸命」「前向き」「笑顔」のワンパターン。そして「いっちょかみ」。どこでもなんでも首を突っ込む。「困っている人をみるとほっとけなくて」「よかれと思って」等といった錦の御旗を掲げていっちょかみを正当化する。

もちろん、彼女のこの性格で助けられた人、救われた人はいっぱいいるのでしょう。しかし、物事は何でも表裏一体です。裏目に出るとこのような事態を招いてしまうことも十分にありえる。私にはそれが理解できます。

「どんな理由があろうとも殺人行為は決して擁護できません」杉下右京なら最後にそう言うでしょうね。でもこれは「相棒」ではないのでそういったお説教はありません。それが私には心地好かった。正論だけでこの世を生きることはできませんからね。正論だけを貫き通したいのならば、その代償として長生きすることは諦めて下さい。

 

押谷道子を殺した犯人は、過去にもう一人、殺めています。この被害者に対しても私は同情しません。殺されても仕方なく思います。だって、みる角度によってはかなりの悪人ですからね。欲望に正直すぎますし、思い遣りや気遣いの気持ちも浅く、軽率で自分勝手な野郎です。

 

ただ、そもそも人を故意に殺めてまで自分が生き残る理由ってあるのだろうか?犯人に対してそう思います。たとえ「娘の将来を思って」という理由であっても、結局は自分のエゴでしかない。そう考えると、やはり杉下右京理論が正しいのでしょうかね。

それと、これはあくまでフィクションだから気軽に「自業自得」「殺されても仕方ない」と言えるのであって、ノンフィクションの事件に対してだったらいかなる場合も気軽に自業自得などと言ってはいけない。なぜなら実際に心を痛めている遺族がいるからです。(天涯孤独なら殺されても仕方ないわけでも当然ありません)

きっと、戦争だろうがなんだろうが正当化できる殺人行為なんてものはこの世に一切ないのでしょうね。*1

 

この物語で唯一、胸が締め付けられた場面、それはクライマックスでの愛するものに手をかける場面です。愛するがゆえに、楽にしてあげたい、苦痛から解放させてあげたい。その気持ちは、痛いほどよくわかります。しかも、手にかけられてる方は「ありがとう」って。これは、とても身につまされます。

私も、その気持ちを心の奥深くに封じ込めながら、妻を看病しておりましたから。

でも、私はそうしないで正解でした。

今日はそのことについては語りませんが、そう確信して生きています。

 

 

最初に述べたように東野さんの作品はこれまで映画やドラマでしか観ていませんでしたが、「容疑者Xの献身」はあまりに切なくて印象に残っています。タイトルを聞いただけで内容を克明に思い出せる作品ってそう多くないですが、容疑者Xの献身は憶えています。そういえばそう、そのあまりの切なさに救いが欲しくて原作の終わり方を読んだことがありました。最後の数ページだけですが、それが私にとって東野圭吾の書く文章と初めて出会った時でした。

東野さんの作品でもう1つ強烈に憶えているのが「赤い指(ドラマ)」での加賀親子の臨終に際するやりとりです。妻の看病で病室に寝泊まりしていた時に観たからよけいでしょうが、あれも非常に身につまされました。世間一般の常識では量れない想いって、あるんですよね。私も様々な想いを背負い、また多くの人から恨まれることを覚悟して、妻のことを看病していましたからね。私の母(妻からは姑)ですら妻の死に目には会わせなかったですので。そのことである人から「お前のことは許さない」って罵られましたけれども、私は正しいことをしたと今でも確信しております。なので宇多田ヒカルさんの想いも痛いほど分かります。当人同士にしか理解できないことって、あるんです。

 

小説って、便利ですね。だって、一般的には説明しにくいことをこうして代弁してくれるから。以前は小説って苦手で敬遠していたんですが、妻を亡くしてからは、けっこう読むようになりました。それは、代弁してほしいことがたくさんできたからかもしれません。なにもかも、ぜんぶ自分ひとりで説明しなければならなくなりましたからね。誰も私のことを代弁してくれる人がいないのでね。

「これはフィクションです」って建前、いいですね。小説家のみならず読者にとっても、読書感想文という体で話をすすめたら言いたいことが理解されやすいのかも。この先いよいよ思考が研ぎ澄まされてキチガイと紙一重の領域に達したら、自ら小説を書くか、あるいは小説家にネタを提供して代弁してもらおうっと。

 

*1:〈追記〉

「死刑」については、また別の話。そもそも「死刑は殺人なのか?」というところから考えなければならないでしょうし。また、復讐や抑止が目的なら死刑ではく「拷問」の方が有効にも思います。と、今日のところはここまで。死刑についてはまた別の機会に。